IGYO10さん

音ゲーや生活やその他のことを書いてます。

MENU

◆愛知、岐阜、静岡行脚記

去る3/10、日帰りで愛知、岐阜、静岡を行脚したので行程と反省を記録しておく。


ことわっておくと、東京〜名古屋でのぞみ、浜松〜東京でこだまを使った以外は、すべてJRの在来線による移動である。

また今回は参加者が四人いたため、青春18きっぷで移動を行った。ただ18きっぷは駅員のいる改札から出なければならないため、改札通過の時間をロスする可能性がある。そのため、早め早めの行動を心がけた(これでも!)ことを先に記しておく。

 

0922-1101 のぞみで東京〜名古屋

さすがのぞみ早い。到着次第ホームの住よしできしめんをたべる。行列のわりに回転は早いのであまりロスはなかった。

1215-45くらい 名古屋から在来線で大垣へ。15分ごとの間隔なので少し気をつけるといい。

1245ごろ 大垣着、シャトルバスがいってしまったのでタクシーで大垣メトロポリスへ。四人で200円弱。帰りは歩きで駅へ。歩くのがやや早いひとで10分強。シャトルバスは行きor往復でしか使うことができないので時間をみながら行脚すると効率が上がると思われる。

チュウニズムの行脚も行ったためやや時間がかかっている。

1315くらい-1400くらい 名古屋へもどる。こちらも15分おきなので気をつける。

1400-1615くらい、名古屋滞在。

同行者たちのお友達に会うということで、チャレンジハウス木場における旧作会を次回に回した。コムテックスクウェア(だっけ)で行脚。

1630-1800 鈍行で浜松駅に移動。寝ていた。

1800-1900 うなぎを食べる。提供時間は早く、こちらも良好。しかもおいしい。

このあと残り時間の関係から、タクシーを使ってタイトーステーション浜松店に向かったのだが、これが失敗だった。道の混む時間で、徒歩のほうが早いそうだ。じっさい、タイトーステーションでの行脚は一曲落ちで退散、という粗末なものだった。

浜松駅にもどり、おみやげを買ったりなどした。

1952〜2147 ぷらっとこだまで浜松〜東京

さすがこだま遅い。コスト削減のためぷらっとこだまを利用したのだが、行きにのぞみに乗ると遅さが際立つ。

ただぷらっとこだまプランは乗車券に加え、幹線駅の売店で使える1ドリンク交換チケットが手に入るのでそこは評価点か。


隙の多い旅程ながらも、無事にこなせたことがなによりの収穫である。

反省としては、日帰り三県では、観光はまったくできないということだった。浜松にある楽器の博物館を見たいと思っていたのだが、そんな余裕はなかった。

とはいえ、この三県は個人的に見たいところがそんなにあったわけでもないので、結果的に日帰りでよかった気もしている。ただ次に他の県をまわる際は宿泊プランを練り、ゆとりのある行程を組みたい。

弾丸ツアーではあったもののなかなか楽しめたと自負している。もう若くないので、体力的にはこたえるけれども……。


さいごに今回断念したチャレンジハウス木場は名古屋駅から1時間弱かかることや、在来線のあとに路線バスを利用することから、綿密に計画して遊びに行ったほうがいいだろうなという感触である。そのうち遊びに行ってみたい。

◆似合わない服を着るつらさ

 大きく出張った骨が、望むと望まざるとにかかわらず厚い皮膚をじくじくと圧し拡げていく。このやっかいな骨盤のおかげでタイト・スカートやスキニーパンツはもとのシルエットを無視して、ぐいぐいと糸をひっぱってしまう。さすがに弾けたことはないが、ひやひやする場面はときどきある。不意にしゃがむときなんかは特にそうだ。

 わたしの下半身はどんなにがんばってもひとより太い。つつみかくさずいえば、足だって短い。このふたつは大きなコンプレックスであり、さらに残酷なことに、努力に限界を認めざるをえないことがらでもある。

 そのくせ、体を締めつけるファッションがだいすきだ。からだの形と服の求める形が合っていないことはつらいし、一度は削ることを考えたものの、手術することを思うと恐れのあまり吐き気をもよおしてしまうし(フィクションであろうとも手術シーンを見ることができない)、よくよく調べてみると骨盤の美容整形的な手術はみつからなかった。


 言ってしまえば、いま流行りのゆるいシルエットのほうが、出張った骨盤のごまかしがきくし、ゴムウエストの気楽さといったらベルトの比ではない。わたしのからだというフィールドで、スキニーに分はないのだ。

 それなのに、スキニーを履くことをやめない。すきだからという、いたってシンプルな言い分だ。服装はその人の身をキャンバスにした自己表現だと、わたしはとらえている。来る日も来る日もからだをしめつけるボトムスを履いてきっちりとベルトを締め、スマートなシルエットのボタンダウンを着て過ごしたい。わたしはみずからの表現の欲求にしたがい、着飾ることをつづけている。

 ゆるいシルエットはわたしにとって、嫌いな色や表現とおなじで「やりたくないこと」だ。「やりたくないこと」はたいがい自分にとって、つらいのだ。似合わない服を着るつらさは、似合うかもしれなくてもすきになれない服を着るつらさには勝てない。内にあたためてきた価値観を、自ら根こそぎ洗い流すようなものだ。その屈辱に耐えられるほど、鈍感に育たなかったらしい。

 それだから、なのかはわからないが、からだの形がこれ以上すきなものたちと不釣り合いにならないように、からだの形や姿勢に気をつけている。不適になったときのかたちを想像するのがこわい。自らのからだが弛緩していくのをふふと笑えるほど、おおらかになれない。神経質で怖がり。憧れに恋をする思春期の少女のような心情だと自嘲してしまう。もうそんな年はとっくに終わっている。ただその張り合いがあるおかげで、ほどよい緊張感をもって自分のからだと向き合っているような気がするし、誰か特定のにんげんに入れこむこともないのかもしれない。思えばこの数年、ひとに恋をしていない。

 話は戻り、骨盤をせばめたり、足を長くする方法があればぜひともお目にかかりたい。もちろん、「こわい」手術をしないやり方で。

◆数字の妙に魅せられて

 身の回りにある数が気になってしまう。偶数より奇数、なかでも平方数と素数がおきにいりだ。理由はさだかでないが、すきな数字は安心する。


 年齢であれば、17才や23才になったときはやたらに心躍っていた(とはいえ、とりわけいいことがあったわけではなかった)。身長はざんねんながら159cmでうちどめになってしまったが、へたに160や162にならなくてよかったのかもしれないと、小柄な自分をうまく合理化している(かなうならば、163cmくらいほしかったのだ)。こんなぐあいである。


 ただし、数字へのこだわりには悩みもある。体重の数字は自分で操作できてしまうものだから、健康的で妥当な数字を愛せないことがある。今わたしは一年前の最高体重54kgから減量に成功し、50kgほどなのだが、どうもこの50という数字がおちつかない。せめて49になれば(欲をいえば47が最高なのだけれど)いいのだが……などと、頭を悩ませてしまう。

 身体はいたって健康で、もうこれ以上痩せたり太ったりしなくていいのだと、医者からは太鼓判をおされている。身体もそれをわかっているのか、スルスルと落ちてはくれない。また、今よりさらに筋肉をつけたいので現状体重を減らすとなるとなかなか険しい(有名な話だが、同量の脂肪と筋肉では筋肉のほうが重い。そして余計な脂肪たちは、上述の減量でかなり消え去ってしまったようにみえる)。しかも10kg単位ではなく実現可能性の高い1kgや3kgなのでたちがわるい。これが37kgや29kgだったらさすがに諦めがつくのだけれども。

 こんなふうなので、体重計に乗るたびに吐き気にも似た気持ち悪さにおそわれる。体調はいいというのに。こういうとき、人の心のもろさを強く実感させられる。


 余談だがもう一つ、むかし物を減らしていたときに、自分の持っている物の数を数えて管理しようとしたことがあった。分類したり、それを整理したりすることがだいすきなのでさまざまなものをジャンル分けして数え、しまいには総数まできっちりとまとめていた。しかしこれらを減らしたり、逆に増やしたりというとき、数字がひとつ動くたびにストレスがかかって頭がおかしくなりそうだった。一週間経たずして挫折したことは言うまでもない。


 数字は魅力的だが、同時に魔性の概念でもある。魔にとらわれてはいけないと泣く泣く諦めたものがある一方で、やはり体重の数値は妥協できないらしい。その証拠に、数字の美しさに屈して食事の偏り方がだんだん顕著になってきている。わたしにとって、47はもっともすきな数字のひとつだ。うつくしいものはうつくしいからうつくしい。それ以上の理由をもとめることができない。わたしのもつ50より47が、あまりにもうつくしすぎる。そんなことを書きつらねてふと体重を計ると、49の数字が見えた。おもわず平方数の恍惚にひたる。足手纏いの2を削ぎ落として、理想のあなたに会いたいと願う。

◆Wordpressに引っ越した話

 かねてより関心があったのでやっちゃおうということで引っ越しました。

ひぷのすおやすみ。 | ぜんぶいり。だいたい寝てる。

 おそらくviewの数なんかはガン減りすると思われるのだけど、まとめておきたかったのですね。記事は全部移してありますが、読んでいる方が数名いらっしゃるので気が済むまでアカウントは残っていると思います。

 それでは、これまで読んでいただき、ありがとうございました。新居でもよろしくしてくださる方は引き続きよろしくお願い申し上げます。

……が、続きものの記事に関しては完結するまでこっちにも貼ります。なんかそういうのは気になっちゃう。

◆MOTHER2における死の描写について 2◆

前回はこちら。だいぶあいてしまった。↓ 

cryin8c10wn.hatenablog.jp

 次にツーソンのトンチキさんを見てみよう。トンチキさんはヌスット広場という青空市場の元締めをしている男で、見た目はうさんくさく、行動も謎めいているがどうやら広場のひとびとの信頼は厚いようだ。ポーラ誘拐の件も一枚噛んでいるようだし、ポーラ救出の後に訪れればどこから調達したのか「100まんドル」のさつたばをネスに押し付ける。このさつたばによって、劇場に騙されて働かされているトンズラブラザーズを解放できるのだが、出所の分からない金を出会って間もない少年に渡すのは常識的に考えてだいぶゾッとする。それなのに当の本人はどこ吹く風、「マニマニのあくまをいただきにでかけるところだ」なんて言いながらとっとと去ってしまう。

 次に会えるのは大都会フォーサイド、かなり弱った姿を町の人々に囲まれている。どうやらマニマニのあくま強奪後、転売しようてヘマをしてしまったらしい。おまけにフォーサイドの権力をほしいままにする実業家モノモッチ・モノトリーの秘密を知ってしまい、その生命を狙われてしまったようだ。息も絶え絶え、今にも死にそうな彼はモノトリーの秘密をネスたちに教え、ふらつきながら去っていく。この後本編でトンチキさんは出てこない。ただこの直後にフォーサイドのホテルに泊まると朝の新聞読み上げサービスで「都会の孤独な死。サングラス  ひげ  長髪  アロハシャツの男性」と、彼を思わせるような記事を聞くことができる。

 ここから彼の死に際の状況について見ていく。彼が発見されるのはボルヘスの酒場で「なんだか、みせのそとがさわがしいわねぇ…。スワローズファンが「トーキョーオンド」でも歌ってるのかしら」という店員の言葉を聞いてからだ。外に出るとBGMは怪しげなものに変わっている。ビルの間に人だかり、その中心に彼がいる。誰も彼に話しかけようとはせず、以下のような台詞が聞けるのみである。

◆おお、いやだいやだ。あんなめにあいたくないね。
 じぶんじゃなくてよかったよ。
◆ひとがたおれているんだけど、しんでるのかなぁ。
◆あんまりにんそうのいいひとじゃないわねぇ。
◆やぁねぇ、こんなところでしんでるなんて。
◆いきはしてるみたいだけど、ただのよっぱらいかなぁ。

 わたしは名もなき彼らの言葉を、冷静な観察者の目線のように感じた。彼らにとってトンチキさんという「ひと」はどこか第三者的な「対象物」のようで、暴力的な言い方をすればエンターテイメントのような「見世物」にも見えてしまうのだ。

◆リンダキューブの世界観(3)

前回↓ 

 前回はリンダキューブの世界観が抗えぬ「絶望」を抱えているということを述べた。だが、実際にプレイしてみると他住人の退路の確保の描写やコミカルな台詞回し、新天地での明るいエンディングにより立ち直れないレベルの「絶望」を感じる場面があまりにも少ない。またシナリオA、Bは星の宿命以前にストーリーの凄惨さのインパクトが強いこと、動物の捕獲ノルマが少ないことからかなりの時間的猶予があり「死神」について考えるのが二の次になりがちである(註:時間が経過していくに連れ住人たちは他の星に避難していくので人口は減り、場合によっては施設が利用できなくなることもある。ここで初めて「この星にいられるリミットが減ってきている」という実感が沸くようになっている)。よって「死神」がもたらす自分の無力さの実感が、だいぶ希釈されている。

 このような実感は本作の持つ「絶望」がミクロな範疇に及んでいないことによる。あくまで本作における絶対的な「絶望」はネオケニアという星の終わり─いわばマクロ的なものに対する絶望であり、星に住む全ての生き物の終わりを指してはいない。彼らの前には「他の星に移住する」という選択肢があり、実際そうしている。それだからケンとリンダは作中でも仲睦まじくやっているし、未来のことも喜々として語る。住人たちもさほど切迫した素振りを見せず、中には「まぁ、なるようになるでしょ」という気楽さを持つ者もいる。ケンとリンダ、ひいては本作に登場する全ての人々、動物にとってこの星は「絶対的な」拠り所ではないのである。ゆえに登場人物たちは今まで生きてきた星を捨てることをいとわないし、笑顔でいることができるのだろう。これも従来のRPGと比べるとだいぶ意表を突く設定であり、ひとつの魅力でもある。

 以上のように、本作は星の危機と住人の存亡が切り離されたうえで成り立つ物語である。それゆえ星単位の「絶望」を抱えたシチュエーションが、即座に個々のいきものの「死」を連想させない。むしろそれとは反対の「明るく」「どこか気楽な」雰囲気があちこちに漂っている。これが「リンダキューブ」が「リンダキューブ」たる所以であり、奇妙な言い方であるが「明るい絶望」を背負った世界観として映る。

◆サイト更新◆

 今までこちらに載せたRPGレビューをすべて、考察を一部移しました。疲れた…。

http://cryin9c10wn.com/rpg/

 FF9の世界観に関しては大幅にリライトしたので、もし関心があればどうぞです。そしてリンダキューブの世界観についてはまた後日……もう絶望については書いたからほとんど終わっているんだ……。

 MOTHER2のゆるゆるやりこみは今月中には終わらせたいところでございます。多いから時間のあるときにすませたい。

◆リンダキューブの世界観(2)

  疲れてたのか昨日は即寝てしまった。まぁ、そういうこともあるよね…。

  この「死神」がどうあがいても避けられないものとして書かれている点が、リンダキューブの世界観のいしずえである。従来のRPG─例えばファイナルファンタジー7ならば星を破滅させる力をもった「メテオ」を食い止めるために、クラウドたちが奔走し「ホーリー」を発動させる。他のRPGを見てみても、およそ絶対的な破滅に対する対策が用意されている。

 しかし本作はそうではない。最初からそのようなカードを放棄していると言っても過言ではないだろう。ケンとリンダは単なるネオケニアの一住人であり特別な能力も、ファンタジーめいた生い立ちもない。どうあがいてもケンが救えるのはせいぜいリンダと捕獲した動物くらいのものなのだ。他の住人たちは宇宙船に乗って別の退路を取っており、ケンたちはそれには一切干渉しない。

 この世界構造こそが本作の抱える「絶望」ではないだろうか。従来のRPGにおける勧善懲悪的な展開、ひいてはそれの生むカタルシスが本作にはない。一貫して星の終わり─言ってしまえばRPGのプレイにおいて当たり前のように守ってきたものに対し、なすすべを持たぬ無力さをいやでも意識させられるシステムになっている(註:リンダキューブにはそれぞれのシナリオで動物の捕獲数のノルマがあるため、あまりのんびりしていると時間経過により「死神」が落下してしまう)。それはプレイヤーに対する挑戦と取ってもいいのかもしれない。RPGにおいて、無力感にさいなまれるような挫折や屈辱は、物語の道中に仕掛けられていることが大半であった。たとえばドラゴンクエスト5の少年編の終盤(ゲームで言うと1/4程度のところだろうか)では自らの弱さ故にゲマに敗北し、自分を助けようとしたパパスを目の前でリンチ、しまいには殺害されてしまう。この敗北を引きずったまま、主人公は青年編の後半まで旅を続けねばならない。しかしシナリオの進行上必ず打ち倒せるように出来ている。序盤の大きな喪失を乗り越える過程がプレイヤーの心を打ち、パパスの断末魔と共に語り継がれる名シーンとなっているのだろう。

 先程も述べたが、リンダキューブは終始世界の破滅に対する救済が一切存在しない。さらに言えば倒すべき侵略者や悪の組織も存在しない。彼らの眼前にあるのはただ「大自然の脅威」である。それらを地盤にして構築されているからこそ、リンダキューブという作品が深い「絶望」をはらんでいると感じざるをえない。

◆リンダキューブの世界観(1)

 ◆で閉めるのやめようかと思っています。ナンバリングを入れると、くどいのだ…。決してMOTHER2の死についてを忘れたわけではない、ない、こんばんは。仕事に疲れてきているんだ!と最近になって気づきました。書きたいことはあれど、まとめる頭が残っていないのです。いいわけといえばそれまでですが、気づけただけでもよかった。

 

 クリスマスも終わってすっかり年末ムードの漂っているところなのだが、クリスマスに関してひとつ書きたかったことがあるのでその話をしようと思う。サンタクロースをモティフにした凄惨なシナリオで知られる『リンダキューブ』の話だ。『リンダキューブ』はその個性を挙げればきりがないほど独創的な要素を持つRPGであるが、今日考えたいのはリンダキューブの世界観のことである。過去レビューにおいてはシナリオに言及すると思い控えていたのだが、せっかくなので書いてしまう。

 ゲーム自体のシンプルなレビューはこちら。

 リンダキューブの舞台はネオケニアという、地球に類似した惑星である。ネオケニアは8年後に「死神」なる隕石が落ち、完膚なきまでに破壊されることが予言されている。そんなある日、空から大きな箱舟と石版が落ちてくる。それは「動物集めに自信のある男女各1名の搭乗者求む」という神からのメッセージと、動物を入れる大きな器であった。箱舟の乗組員となれるのは男女各一名ずつ……その二人こそ、主人公ケンと恋人リンダである。プレイシナリオは全部で4つ用意されており、どれを遊んだとしても最終的には箱舟に乗ってネオケニアを脱出、新たな星に着陸しそこでの生活を始める。そこでの生活はリンダのじゃじゃ馬っぷりに振り回されつつも、まんざらでもないケンといったようすだ。

 さて、リンダキューブにおいて特異なのは目的が一貫して「動物集め」である点である。8年後に落ちてくる隕石「死神」はプレイする上では全く関わってこない。これは和製RPGにおいて非常に特異な点であるといえよう。和製RPGはその性質上、シナリオのスケールが世界を背負うレベルのものになりがちである。その世界のために奮闘するといったものがオーソドックスで、そこにおける葛藤や挫折、成長などの描写がプレイヤーの心に残ることの多い類のものだと認識している。しかしリンダキューブはネオケニアという惑星が舞台で、「死神」という8年後の隕石の存在も把握されていながら、それに抗う姿勢が全く見られないのである。

◆2015年のこと◆

 だいぶ間があきました。万物のやる気が削げる11,12月、いつもそうです。何かを考えることに疲れたり書くに至らなかったり…そんなことがあるので毎日何かを書いている人はすごいな、と思います。ほぼ日の今日のダーリン、理想的なものかきスタイルだったりします。800~1000字くらいのエセーを毎日続けたら1年で300000字くらいになるわけで、その文量ってすさまじいなと感じるわけです。

 頭の中がもやもやしているときと書くことと疎遠になっている時期が結構重なるので、ほんとうは健全な生活のためにも書いていたほうがいいのではないか?と思ってはます、こんばんは。

 最近はBeatmaniaⅡDXの新作が稼働してイベントが始まったり12が解禁したりしたので、週1かそれに満たないくらいでやってます。DPの話ですが今作の12はなんか強い!ホムポジ崩さないと取りづらい配置が多くて、今までの極端なホムポジ譜面や北斗譜面の中間に位置する感じの譜面が多いな~という印象でした。あとはHCNでしょうか…DIAMOND CROOSING、全然できないけどおもしろい。Dynamiteも回数重ねれば見えてくるものがあるのかしら。あとは絵をたまに描いたりゼノギアスの二周目をこまかくセーブ取りながらやってます。まぁ要するにあまりがんばれてません。 

 2015年の抱負みたいなのはどこかでやったはずなのだけど、ちょっと見つからないので…簡単に。たしか「できそうなことはやってみる」みたいな感じだと思うんですが、文章を書く場所(ここ)をつくって続けるように努めた時期もあったし、やりたかったcssもちょっとできたし、パズル本関係でフォトショとイラレも触ってみたりしたし、部屋の掃除はかなり満足できる程度まで終わったし、減量はどうかな、とりあえずやばい時期は脱せたけどまた増えてるね…という感じで全てが満帆でもないので6割くらい。

 来年は創作をもっとやりたい。一枚絵かいたり1Pまんが描いてみたりしてみたいし、お話自体も書きたい。RPGも進めたいのだけど、来年は個人的なタスクが結構重なる時期なのでたぶん積みを崩せない。それこそ毎日の800~1000字エセーみたいな文量で済むのならそれでいいのかもしれない。とにかく書く・描くことは捨てないでいたい。それにともないインプットも欠かさないようにしたいな、本とかゲームとか芸術とか。今年全然見れてなくて目が飢えてる。

 あとサイトが結構放置されちゃってるからちゃんとやってあげたい。後は何より生活がガタガタなので健全な時間に眠りたいな…。というわけで2016年は「やりたいことをやりきる。キャパを超えそうなら捨てる勇気を持つ」1年にしようかな。それではよいお年をお迎えください。