IGYO10さん

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◆永遠の闇の話◆

FF9、15周年おめでとうございます。今後もわたしのいちばんすきなゲームとして傍らにあることでしょう。

去年は3人のオトモダチにFF9をすすめたのですが、皆気に入ってくれて嬉しかったです(余談)。

 

ということで、前回書きそびれた永遠の闇についてちょっと考察してみました。

永遠の闇はFF9のラスボスなのですが、その唐突な登場とジタンとの会話を無視する自分語りおよび世界語りでプレイヤーをドン引きさせた謎の浮遊生命体です。

 唐突に現れるラスボスはFFにおいてそこまで珍しくはないのだけれど、だいたいその存在が示唆されていたり(アルティミシアはエスタの大統領官邸でその名前が出てきますね)、前触れがあります(暗闇の雲はザンデが召喚したモンスターでした)。

ところがこの永遠の闇、全く前触れもなくいきなり異空間で出てきます。自由すぎるぜ…。

と、ネタ記述をしていると終わらないようなキャラクターですので、本題に入ります。

 

・永遠の闇って結局なんなの?

永遠の闇は、FF9の世界構造の、否定概念を具現化した存在ではないか(長い…)。

FF9には「命」(生きる)の賛美、肯定というテーマを意識して作られており、シナリオ中に各キャラクターへ生きるうえでの障壁が発生し、多かれ少なかれそれを乗り越えていく過程が描かれている。

それとは対照的に、永遠の闇はとかく「無」が、果てしなく連鎖する生の暗黒面(主に死に対する恐怖)を消し去る唯一の可能性であると主張する。だがそんな永遠の闇を撃退する力は、ジタンたちの持つ「生きる意志」の強さであった。

ジタンは永遠の闇と対峙した際、このようなことを言っている。

「オレたちがおまえを倒して、それが間違いだってことを証明してやる!
「そして、恐怖に打ちかったことが記憶になり、次の世代へと受け継がれていくんだ!
「だから……ここで倒れるわけには…… おまえなんかに負けるわけにはいかないんだ!
「だから……みんなの力を…… 今こそ、みんなの力を合わせるんだ!
「もし、オレたちが力つきたとしても 終わってしまうわけじゃない……
「オレたちのことを記憶している誰かがいる限り、その記憶と生命は永遠につながっていく……
「それが生きるってことだ!

記憶と生命のつながりを強く主張するのは、FF9のクリスタルが魂を現世に送り出し、また死したことによりクリスタルへ戻ってきた魂の記憶を保存する特性を備えていることがひとつの理由としてあろう。ジタンは記憶の場所を進む過程で、ガーランドから世界の仕組みについての説明を受けており、永遠の闇と対峙する時点ではそのことを理解している。また最後の「生きるってことだ!」という台詞であるが、これはジタン個人の生のみならず、ガイアが生まれてから連綿と続く命の連鎖を指しているように思う(記憶の場所「原初の海」で、ガイアは昔海だった、俺達は生まれていないけれどそのことを何故か知っている、というエピソードはクリスタルに蓄積された記憶が個々の魂に分有されていることを示している。度重なる命の繋がりによって得られる知識がこれなのである。)。前回の記事でも書いたが、FF9の世界構造は死を以ってはじめて成り立つようになっており(クリスタルの成長、すなわち星の成長は記憶の蓄積によってなされる。命が尽き、その魂が生前の記憶を抱いてクリスタルへ戻ってくる運動があってはじめてクリスタルに記憶が蓄積される。)、全てを無に還そうとする永遠の闇の存在はこの世界構造の「絶対的な否定」そのものなのである。

よく巷で言われている、永遠の闇がクジャの絶望が呼び起こした召喚獣であるという説は、このような側面から導き出されるのではないかと推測できる。彼らの破壊のベクトルは大きさは違えど同じ方向なのである。

 

・おまけ ~トランス・クジャはどうしてラスボスじゃないの?~

こちらも世間でよくうたわれている「トランス・クジャがラスボスでよかったのでは?」という意見であるが、その点においては否定的な態度を取っている。基本的に私は、「何かがある」ということには何かしらの理由があるという信条があるため、考えてみたことを書いてみる。

まずは本来のラスボスである永遠の闇との対比をしてみることにする。

トランス・クジャと永遠の闇の違いは、前者がひとつの個体であって、やろうと思えばいくらでも代替可能な存在であるのに対し、後者が個体の枠組みを超えた存在であるという点である。

ジタンはラストバトル後、イーファの樹の入り口において、クジャなど放っておけばいいというエーコに対してこう言う。

「……ああ、確かにあいつは オレたちを道連れにしようとした……
「そして、この世界をメチャクチャにしようとした ……それは許されることじゃない
「だけど、オレがもしクジャだったとしたら、同じ行動をとらなかったとは言い切れないんだ」

ジタンはここで、作中で一貫して孤独な存在として描かれたクジャを自らに投影し、クジャのようなケースの発現が決して特異なものではないことを示唆している。

一方で永遠の闇は通常の世界とは異なった次元に存在している(また詳しく書かれていないため確証はないし、そうでなくても構わないのだが、クリスタルを端緒とする魂の運動から逸脱した存在のように見える)。誰かが死の恐怖を全ての破壊によって救う結論を導くことでで現れ、倒したところで以下のように言って消滅する。

「だが、これで終わりではない

「この世に生あるものと、そして死が存在する限り……

「私はいつでも復活する」

つまり、永遠の闇はクリスタルを源とした、生と死の絶え間ない運動によって増幅していく世界構造がある以上決して消滅しない設定になっている。それは同時に生あるものが死の恐怖を拭い去れないことを暗示していることにもなろう。

また前章にて述べたように、永遠の闇はFF9のテーマとして掲げられている「生きる」ことの反対概念「死(無)」の具現化であると考えている。生を肯定するFF9の旅路において、対する死の概念が中途半端なものでは対立が際立たないように感じる。そこにおいてもクジャは力不足の感が否めない。

クジャはイーファの深奥までジタンが助けにきた際、次のような台詞をこぼす。

「キミたちとの戦いに敗れて、僕は失うものがなくなったんだ……
「その時、生きるということの意味が 少しわかったような気がしたんだ

彼は全てを失い、死の淵に立ったことで「生」をわずかながら感じ取っている。

FFシリーズにおけるラスボスは(少なくとも9までは)このような態度を取らないように思う。ラスボスは主人公たちと真っ向から対立し、あらゆるものの破壊を望み、主人公たちに撃破されている。そう考えてみると、クジャは救いの余地を残したキャラクターとして作中で描かれている。

ジタンを代表する「誰かを助けるのに理由がいるかい?」という台詞は、このシーンでクジャに投げかけられている。もちろんこの台詞はジタンが誰かを助け、なぜ助けたのか?と尋ねればどこでも使うことができよう。しかし、物語における破壊の大半を引き起こしたクジャに対しこの台詞を投げかけることで、ジタンの「生きる」ことへの一貫した態度が最大限まで際立ち、宿敵であった彼に救いの手を差し伸べる構造が成立する。そして死の瀬戸際でささやかながらも生の片鱗を感じ取ったクジャは、きょうだいであるジタンの隣で息を引き取る。このシーンはひたすら孤独な存在として描かれていたクジャの、最初で最後の救済の物語として解釈できないだろうか。仮にもし全く救いがないとしたら、クリスタルワールドでラスボスとして君臨し、ジタンたちに倒されて終わっているほうがFFのラスボス遍歴を見るに自然であろう。このこともひとつ、クジャがラスボスに設定されなかった根拠と考えられないだろうか。

 

(おまけのほうが長くなってしまった…。)